東山住区住民会議

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住区だより東山 118号を発行しました

桜の便りが遅れていますが、春の日差しを感じるようになってきました。

118号は東山住区内のご家庭のポストには3月中にお届けする予定です。

万が一ご家庭に届かなかったり、部数をご希望の方は住区センター窓口にも在庫を置いてありますのでお声がけください。

【令和6年3月21日更新】


住区住民会議とは

住区とは、概ね区立小学校の学区域を単位として、地域のコミュニティを醸成する目的で設置され、都内では目黒区だけの組織です。

住区住民会議は目黒区からの補助金を活用することにより、住区まつりや見学会、各種スポーツイベントなどの行事を開催しています。

東山住区の特徴

『東山住区住民会議』は、昭和49年に目黒区で最初の住区住民会議として設立されました。東山小学校の学区をエリアとしており、住区の大半の部分は東山台地の上に位置しています。東側には目黒川が流れ、国道246号線と山手通りという2本の幹線道路に接する地区です。東山貝塚に象徴される歴史あるところでもあり、快晴の日には富士山も望める明るい土地です。

また、通勤に便利な土地柄、社宅、官舎やマンションが多く、広い世代の住民が暮らしています。

※右の地図は少し前のものです。現在は東山小学校の改修は終わり、住区センターもその敷地内に移転しました。


東山・いま・むかし《バックナンバー》

その10 「おじいちゃんの戦争の話」の巻

(平成13年10月東山小学校3学年社会科での講話「おじいちゃんの戦争の話」より抜粋)

昭和19年の秋、空の澄み渡った日の午後のことです。空襲警報が鳴り渡り、皆が空を見上げて騒いでいました。そこには飛行機雲が高い空に筋となっていて、その先に銀色のぽつんと輝くものがありました。それがおじいちゃんが始めて見たアメリカのB29爆撃機でした。その日は偵察でしたが、段々日がたつに連れて爆弾や焼夷弾を落としてゆくようになり、空襲も昼間ではなくて夜になってきました。その年の12月、もうお正月を間近に控えた日に「浅草」が爆撃されて、次第に東京のあちこちに爆弾や焼夷弾が落とされました。この東山小のある場所は、(その当時)一面赤土の剥き出しになった広い軍隊の用地でした。だいぶ以前から兵隊の訓練をする「練兵場」として使われていたので、大橋の東邦大学病院のあるところや1中、駒場高校などのある場所にも軍隊の兵舎がありました。そこには「高射砲陣地」が作られ、盛んにアメリカの飛行機めがけて高射砲を撃っていましたが、何しろ7千メートル以上の高い所を飛んでいたので、なかなか弾はとどきませんでした。ごうごうと爆音を轟かせて高い空を飛ぶB29の姿は「探照灯」という光に照らし出され、その周りに花火でも見るように飛行機まで届かずに破裂した高射砲の弾の光がチカチカと一瞬輝きます。その年はなぜか寒い年だったように記憶していますが、ほとんど毎晩のように空襲があります。警報がなると警防団の人が大声で、「退避、退避」とメガホンを持って飛び歩きます。外は真っ暗です。ちょっとの灯りでも飛行機の的になってしまうので、シンシンと寒い夜中じゅう、眠れないで敵機が帰ってゆくのを待つのです。

そして昭和20年3月9日には「東京大空襲」が始まりました。その夜はいつも7千メートル(上空)を飛んでいたB29が、突然すぐ頭の真上を飛んでいるかと思うくらい低く飛び、ジュラルミンの主翼や胴体が地上の火災を起こした炎の反射で紅く輝いて次々飛んでゆきます。日本の高射砲もものすごく撃ちます。チカチカと外れていた弾がついにB29に当たって、その大きな飛行機が一瞬、ぐらりとなり主翼付近から次第に火に包まれて傾いていき、どんどん高度を下げて炎の塊となって東京湾のほうへ落ちていきました。それより気がかりなのは東京下町の火災で、ぐんぐん広がって火事は大きくなってゆくばかりです。消防車もそんなに一遍に何十箇所に火を消しには行けません。その為に東京の中心部と下町一帯が焼けてしまいました。この「東京大空襲」で8万人ほどの人が焼け死んだり行方不明になったりしてしまいました。大空襲のあったすぐあと、まだ焼け残った渋谷、目黒、世田谷、大田などの人家の密集しているところの道路の両側15メートルずつを3月中に家を壊して火事を広がらないようにすることになりました。強制疎開といい玉川通り(国道246号線)も渋谷からずーっと、三軒茶屋のまだ先まで片側15メートルをけずるようにこわしていきました。おじいちゃんのおうちも、あっという間に壊されてしまいました、早くしないといけないということで、陸軍の戦車が来て壊している所もありました。生まれた時から住んでいた家だけに淋しい気がしました。

その頃も毎日空襲があって東京の空は空中戦の戦場となっていました。日本軍の飛行機はその何倍もあるB29に体当たりをして撃墜しようと色々やっていました。陸軍航空隊の「飛燕」という戦闘機が体当たりに飛び立ちましたが燃料がなくなるまで戦って、東山小から遠くない、寿福寺の裏側の練兵場に不時着しました。よくもこんな小さい飛行機であの大きい飛行機に立ち向かっているものだ、とびっくりするくらいジュラルミンの飛行機は小さいものでした。

そして昭和20年5月24日、ついに東山にも空襲で焼夷弾がたくさん落とされました。3月9日の下町空襲と同じようにまたしても低空飛行で東京の空にB29の大編隊はやってきました。芝や麻布、青山などが真っ赤に燃え上がりました。1機が頭の上を飛んでいったあとシュルシュルと嫌な音がしザッツ、ザザッツと畳ござに水をまいたような音がしたかと思うと間もなく今では(東山)児童遊園になっているところから火の手が上がりました。おじいちゃんの入っていた防空壕の出口には、パッシャッつという音がして不発弾が地中にめりこみました。お陰で爆発しないで済みました、ところが今度は50メートルと離れていない向かい側に焼夷弾が炸裂して燃え上がりました。大勢の手伝いの人が手に手に持ったバケツで、水をかけるそばから熱で乾きそうになる木の塀に水をかけ道路ひとつ隔てた向う側の火災から何とか家を守ることができました。

おじいちゃんの家のまえの玉川通り(国道246号線)にはたくさんの人が荷車にたんすとか風呂敷包など一杯乗せて避難して行きます。ぞろぞろ世田谷のほうへ向かって行きます。それが青山から先で焼けた人たちだと分かりました。逃げる人に混じって1中の所にあった「陸軍の輜重(しちょう)兵連隊」の厩から逃げ出してきた何頭もの軍馬がかけてゆきました。どこへ行ったら良いかきっと分からないながら、馬も恐ろしさに人といっしょに逃げ回ったのだろうと思います。空にはB29に混じって火の粉が飛んでいて周りの火災の煙も立ち込め、段々息苦しくなってきました。煙と熱風に押されて、何人かの人と一緒に、梯子をかけて目黒川に降りました。5月の空は早く夜明けがきます。人の姿かたちに色がついて見えるようになったら「ああ、助かったのだ」と心から思いました。その時目は煙でただれ、どの人もだまったままでした。まだ空には煙がよどんでいてひどくつかれていたことを覚えています。

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おじいちゃんの戦争の話はここまでです。わたしたちのまち東山にも戦争の被害があって、人々が大変な時代を過ごしたということを忘れず、これからも平和な日本、平和な世界を願って私たちに何ができるか考え、実行していきましょう。

その8 「オリンピック道路」の巻

山手通りの青葉台一丁目交差点から世田谷区下馬方面へ通じる道路(通称・野沢通り)は、オリンピック道路とも呼ばれています。昭和15年に開催される予定だった東京オリンピックに備えて、渋谷から当時競技場建設予定地であった現在の駒沢公園方面へ通じる道として、昭和12年ごろに工事されました。都心部とメイン会場を結ぶという目的からここ「東山台地」を2つに切り裂いて一直線に通されました。東山中学校の裏手あたりは道の両側が高い切り通しで、その上に「鴻之巣橋」が架かっています。第二次世界大戦で被害を受けるまで、橋の北側近くに松やヒノキの林に囲まれたお稲荷様の小祠があったそうです。その社前の松の巨木に、毎年コウノトリが飛来して巣を作ったため、鴻之巣松と呼ばれ、橋の名もこれに由来しているようです。切り通しで断される集落に相互の交通手段を残すために掛けられた鴻之巣橋は、いまでは東山住区と烏森住区を結んでいて、ここに住む人たちには無くてはならないものになっています。このときのオリンピックは日中戦争による国際的な批判にさらされた日本が辞退を決め、開催されませんでしたが、その名前だけが道路の名前に残っています。

その7 「蛇崩」の巻

「蛇崩(じゃくずれ)」という地名は明治22年の町村制施行によって、目黒村大字上目黒の字名として登場、大正11年の町制を経た後も親しまれていましたが、昭和7年の目黒区誕生を機に姿を消してしまいました。

地名の由来のひとつに「大蛇伝説」があります。江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」には、「昔、大水の際、崩れた崖から大蛇が出たことからこの地名が生まれた」との記述があります。その大蛇が現れたのが、この蛇崩という地名のあたりだったのかも知れないという想像が膨らみます。
もうひとつの由来は、蛇崩川が大変な暴れ川で、激しい水の勢いで頻繁に大規模な土砂崩れが起こっていたことから「砂崩(さくずれ)」~土堤崩をいう古語~が、訛って「じゃくずれ」に転化し、また、蛇行屈曲した川の状態から、「蛇崩」の文字を当てたのではないか」とも言われています。いずれにしても、蛇崩地域の北側を
蛇行する蛇崩川が浸食した地形がもたらした地名といえるでしょう。この蛇崩川は全長5.2キロメートル。水源は世田谷区のJRA馬事公苑付近す。現在は、大部分が暗きょ化されましたが、かつては湧水に富み、流域は水田地として、豊穰な土地であったと言われています。ご存じのように暗きょの部分は現在緑道になっていますので、近隣の方の散歩道として、中目黒までの抜け道として利用されています。今では唯一「蛇崩川支流跡」というプレートが残され、昔このあたりに川が流れていたことを知ることができます。

その6 「目黒川の桜」の巻

目黒川沿いの桜の植樹は昭和2年に始まったとされています。明治以前の目黒川は周囲の農地に農業用水を供給する貴重な水源でもありました。恵まれた水利により、目黒周辺の農村は発展し、目黒川に水車を設けて、精米や製粉など農産物の加工を行っていました。明治初期には目黒周辺には10数か所の水車があったそうです。しかし、大正時代になると電力の発達により動力源としての水車の価値は失われました。そんな折、大正時代のはじめには、治水とともに船が運航できる運河にするための工事が始まり、昭和12(1923)年に運河として完成しました。その間、護岸工事のたびに、地元の有志が工事の記念として桜を植えたのが、今の目黒川の桜並木を生むきっかけとなったそうです。護岸工事の植え替えでは、 初代が昭和16年、二代は昭和36年、三代目は樹齢15年を昭和62年に植えたそうです。現在では約830本ものソメイヨシノが、植えられているとのことです。

その5 「駒沢練兵場跡」の巻

南北は現在の東山公園から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なエリアには、旧日本軍の駒沢練兵場がありました。兵士5000人、軍馬1300頭が日々鍛錬に勤めていたと言われています。

練兵場では、東山の傾斜地を使って急坂路訓練も行われたそうです。大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて、坂を駆け上がり、下りてはまた上がるというものでした。ときには兵隊たちが引き上げるという訓練も行われたそうです。東山中学校脇にある馬頭観音には、2頭の軍馬が祀られています。この馬頭観音は一兵卒が訓練に倒れた軍馬の供養に建てたものだといわれ、「苫良号、腰椎骨折、大正11年没、福富号、急性伝染性貧血、大正11年」と彫られているのがわかります。

駒沢練兵場の跡地は、戦後、国土地理院や公務員住宅の団地群、陸上自衛隊三宿駐屯地などに使用されてきました。戦後まもなく、木造2階建ての公務員宿舎が建てられ、その後今の東山公園(拡張部)にも4階建ての公務員住宅が建ち並んでいました。 宿舎の間の草むらには、蝶やとんぼなどの昆虫がたくさん飛んでいた時代です。  また、東山公園と東山地区センターの建つあたりには、昭和54年まで建設省 (現国土交通省)国土地理院がありました。今は東山公園の中に記念碑だけが残されています。

その4 「目黒川」の巻

戦前の目黒川は、子どもたちが水遊びをしホタルが飛び交う清流でした。

昭和30年代までは染物屋が目黒川で友禅流しをしていました。まだ、亀や魚も泳いでいました。江戸時代、目黒川の水は灌漑用水として利用されたため、川沿いには上田が多くありました。しかし、川幅が狭く水深が浅いため、大雨が降れば川の水があふれ、田畑が冠水することがしばしばありました。

大正期に入ると、治水とともに目黒川を船が運航できる運河にする計画が立てられ、昭和12年に完成。曲りくねった川の流れは、現在のようにほぼ真っすぐになりました。しかし、それ以降も、大雨が降ると、上流の烏山・北沢川や支流に注ぎ込んだ雨水が目黒川の水量を増し、あふれさせることも時折あったのです。東山地区でも昭和42年、大橋より下流で氾濫し付近の住宅や商店が被害を受けました。

近年は護岸が整備され、平成6年(1994年)には、通称「船入場」に東京都が洪水調整池を地下に設け、大雨のときの備えとなっています。

しかし、最近では都市の排水設備の限界を思わせる「内水氾濫」の危険も想定しなければならなくなりました。「今までに経験したことのない」気象が続く中、日頃から油断なく備えておくことが大切です。

その3 「東山貝塚」の巻

東山の台地から目黒川に向かう緩斜面では、明治時代中ごろから貝殻や土器片などが出土していました。貝殻や、魚、動物の骨などを捨てた貝塚があり、ハマグリ、シオフキ、アサリ、イソシジミ、ヤマトシジミなど海水産の貝や淡水が交じり合う水域の貝殻も多く見つかりました。
貝殻のほかにはクロダイ、アジなどの骨や鱗、いのしし、シカ、アナグマ、イヌ、クジラなどの骨も見つかり、狩猟のほかに漁労も行われていたと考えられています。海から遠く離れた東山に海水産の貝や魚が残されていたのは、縄文時代に目黒川岸の低地が入江となっていて、東山近辺はその深い入り江の奥に位置していたためと考えられます。
大正15年には縄文時代の竪穴住居跡が13軒も発見され、縄文後期を中心とする土器、石器なども見つかりました。発掘された竪穴式住居は、直径6m、深さ30~40cmの円形状で、床の中央には石を囲って作られた炉も存在したそうです。今から約5,000年以上もの昔、私たちの祖先は、わき水など地の利を得て、この東山の地に生活を展開していたのです。

 

その2 「寿福寺」の巻

 天台宗寺院の寿福寺は、新清山観明院と号します。創建は元和元(1615)年鳳算大阿闍梨(ほうさんだいあじゃり)が創建したと伝えられますが、境内にある弘安2(1279)年に建てられた板碑(いたび)からは、草創はさらにさかのぼるものとも推定されます。

 明治8(1875)年に本堂と庫裏を焼失してしまいましたが明治13(1880)年には行人坂明王院の念仏堂を移し本堂としましたその「念仏堂」の由緒ある扁額が今も本堂に掲げられています。本堂には寛文3(1663)年に刻された木彫彩色の「青面金剛立像」が安置されています。また、門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2体の延命地蔵尊や庚申塔などが立っています。墓地には、江戸期に将軍の鷹狩りに備えて獲物を餌付けしておく綱差役(つなさしやく)を代々務めた川井権兵衛の墓があります。

 

その1 「池尻大橋駅」の巻

池尻大橋駅は昭和52年4月7日当時の「新玉川線」の駅として開業しました。ご存知のように、池尻大橋駅は目黒区と世田谷区に跨つて設置されていますが、これは玉川線(愛称:玉電 )時代の「大橋」電停と「池尻」電停のほば中間に設置され、二つの名称を合わせたものです。地名や橋の名前に「池尻大橋」というものが存在しないのはそんな理由なのです。路面電車の時代から 、地下化に伴い地元の意見もとり入れてこの形になりました。大橋の電停は現在も残つている大橋の信号付近で横 断歩道を挟んで上リホームと下リホームがありました。大橋ジヤ ンクションのあたりは玉電の車庫があり、横断歩道の前には大橋車掌区もありました。現在の池尻大橋駅は東山住区のみなさんにとつては近く便利になりました。ちなみに池尻と三軒茶屋の間にあった「三宿」と大橋と渋谷の間に あった「道玄坂上」の停留所は地下化によりなくなつてしまいました。